2006年05月22日

なんでもない

静かな生活
大江 健三郎
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マーちゃん、こと大江氏の娘さんの視点から書かれた一家の素描。6つの中篇所収。その中の「自動人形の悪夢」から。

 「私があくまで普通の頭で考えているのはね、自分をどんな些細なことにでも特権化しないで、なんでもない人として生きているかぎり、余裕があるということだわ。その上で自分なりに力をつくせばいいわけね。」

マーちゃんの兄、イーヨーに作曲を教えている重藤さんの夫人が述べるセリフ。この「なんでもない」という、何でもなさそうな言葉はひどくクセモノである。この少し前のところで、夫人は、障害を持つイーヨーが混み合ったバスの中で女子高生に「落ちこぼれ」と罵倒されたことに対して、その言葉は取り消しをさせるべきだった、と言う。そして重藤さんのワルシャワ空港での「武勇伝」を語る。政府関係者が一般客の荷物を止めて、自分の荷物をポーターに先によけさせていたことに「そういうことをしていて社会主義か」と抗議するのだ。

「なんでもない」人間は罵倒の言葉を取り消させる「権利」あるいは「資格」をどのように自らに保障するのだろう。ポーランドの政府関係者に抗議するとき、そこには逆に、「権利を持たざる者」を特権化する意識が働いていやしないか。「なんでもない」人は語ることができない。語ること、声をあげることは一つの権利であり、語ったその瞬間にその人は「なんでもない」人ではなくなるはずだ・・・とざわざわ言い始める自分の心の声をどうすることもできなかった。

この中篇の最後部分でマーちゃんは「なんでもない」兄を再発見する。障害者でありながら、音楽に関する特別な才能を有していながら、かつまた高名な小説家の子孫でありながら、「なんでもない」、ただの普通の人、としての兄を。それは「義しい」あり方である、と思う。マーちゃんも、イーヨーも、そしてこの物語を綴った大江氏も、皆「義しい」。このような義しさを前にして、私はいつも、立ち止まる。あこがれや尊敬や畏敬の念とないまぜになった奇妙な違和感とともに。
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2006年04月13日

おばあちゃん

西の魔女が死んだ
梨木 香歩
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おばあちゃん、という言葉を頭の中にぼんやり思い浮かべるとそれだけで胸が「きゅう」と痛くなってくる。私はひとりっ子で、おばあちゃんっ子で、そうしておばあちゃんに捨てられた子だ。うちのおばあちゃんは80を過ぎても週に3日は飲みに出かけカラオケをからからと歌い、俳句だ俳画だ習字だと忙しそうに自転車を乗り回しているけれど、時折うちにやってきてはベランダの秩序を欠いた植木を眺めて「こんなに歪んでしもうて」と泣き出しそうな顔をする。おばあちゃんがいた頃、うちの家は、たしかにこんなに歪んではいなかった。

この物語に登場するおばあちゃんは本当にまるで魔女だ。傷ついたまいを癒し、守り、赦し、そうして正しい方向へ導いてやる。そうしてとてつもなく優しい。表面だけの優しさじゃない。お小遣いをくれるわけではないし、欲しいものを買ってくれるわけでもない。けれど一番大切な優しさをちゃんと知っている。

約束を忘れないこと。

おばあちゃんから届けられた「約束の答え」を読んで胸の「きゅう」が大騒ぎをした。

私のおばあちゃんは覚えてくれているだろうか。「こんなに歪んでしもうて」という言葉の裏でまだ、私を思ってくれているだろうか。

・・・個人的な感傷はさておき、こちら(http://mother-goose.moe-nifty.com/photos/botanical_album/index.html)の素晴らしい写真とあわせて読むとさらにステキ。
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2006年04月09日

神話の領域にも近く

裏庭
梨木 香歩
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傷を恐れぬこと、傷にのっとられぬこと、傷を育んでいくこと。三婆からの託宣。

迷路のようなファンタジーワールド(=裏庭)でテンポよく展開される冒険。私は読んだことがないけれどハリー・ポッターやナルニア国物語などもこんな感じなのだろうか。だとしたら絶対読み出したら止まらない。最初から最後まで一気に読んでしまった。

母と娘、そしてその娘へ連綿と受け継がれていく「愛情の欠如」に対して著者が提示した回答もまたよかった。主人公の照美は明確に年齢を設定されていない。おそらく故意に。読者がいくつになろうと、いくつであろうと、照美の、テルミィの冒険は普遍的に胸を打つだろう。上質のファンタジーはそうでなくてはならない。
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2006年04月06日

境界を曖昧にする

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編

4年か5年ぶりくらいに再読。読むたびごとに印象を変えないような本は所有する価値がない、とすればこの本は確実に所有するに値する。

「海辺のカフカ」にもその手法は踏襲されているのだけれど、とにかく確定的なことは何も起こらない。主人公は悪夢のような空間、もしくは行間、虚構の中の虚構をさ迷うだけで、最後の最後になってもなんら確定的な意味をもぎとってくることがない。誰も成長しない。誰も救われない。誰も何も見出さない。圧倒的な無意味に対抗するのは、圧倒的な筆致。

残念なのは第3部があまりにも漠然としすぎていて、あまりにも謎のまま残る部分が多すぎること。読者の想像力を喚起する、という意味では味わい深くもあるけれど、常人の「推測」だとか「想像」をはるかに超え去ったレベルで物語が展開しているため、物語を補完することができない。ナツメグとシナモンの登場になんらの必然性があるのか、主人公が戦っていたものがいったい何者、何物であったのか、クミコは何者、何物に操られていたのか、マミヤ中尉の挿話は何を意味するのか、等々、読後もしばらくはねじまき鳥ワールドが尾を引く。

すべてが繋がっているようで実は何も繋がっていないのかもしれない。

「だからきっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から」(第2部 p.169)、という笠原メイの言葉が、私がよく囚われる「自分の過去に復讐される」というイメージの源泉になっていたことに気づいた。

言葉はさまざまな境界をこえていく。
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2006年03月02日

かみしめる

万延元年のフットボール
大江 健三郎
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そういうわけで再読に約2週間を費やした巨匠の代表作。はじめて読んだのはたしか4年くらい前だけれど覚えていたのは冒頭の「僕」が裏庭に掘られた穴に閉じこもって素手で土をかいて擬似自殺を試みるシーンとそれに続く割れた爪から流れ出る血の描写と、ヤマドリの毛を毟り頭をねじ切るために頸を捻じ曲げるシーンと、スーパー・マーケットの天皇だとか隠遁者ギーだとかいった2、3の印象的な登場人物の名前だけ。人間の記憶なんてその程度のものだ。

それにしてもまあまったく見事な小説である。小説とはかくあるべきである。山間の谷間の村の100年を貫く恥と暴力と欲望と狂気と苦悩の記録。圧倒的筆致。絶対的強度。一分の隙もない。

私は永らく巨匠のことを「ノーベル文学賞をうけるくらいだからまあそういう物語を書く人なんだろうなあ」くらいに思って4年ほど前にこれを手にとるまでは積極的に回避してきたのだけれど(「ソウイウモノガタリ」という曖昧な基準によって村上春樹氏の作品もまた回避されてきたのだった)、今ではすっかり巨匠のとりこだ。

鮮烈な暴力を感覚的に描写することにかけて巨匠に比肩しうる作家を私は知らない。文字は痛みを伴って目から背筋へ、背筋から足元へと駆け抜ける。身体的な眩暈に襲われながら、

―――おれは首を縊るにあたって、生き残り続ける者らに向かって叫ぶべき「本当の事」をなお見きわめていない!

という巻末近くの言葉をかみしめる。
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2006年02月04日

決して廃れてはいない

洪水はわが魂に及び (上)
大江 健三郎
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洪水はわが魂に及び (下)
大江 健三郎
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旧正月だから、とかなんとか再開のためのテキトウな理由をでっちあげてみる。とにかく、風格のある文章を読みたくて巨匠の作品に手を出した。陳腐な物語はもうたくさん。私は眉間に皺を寄せてしか読むことのできない作品をこよなく愛している。「万延元年のフットボール」/講談社文芸文庫、はとにかく必読の一冊であるとして、この上下巻に集約されている暴力、性、時代へ救いようのない絶望、無為で無鉄砲な抵抗、身勝手なともいえる理想主義、おそらくは浅間山荘事件や安田講堂陥落をモチーフにした「理念の敗北」、その総量はすさまじく、もしもこの物語にジン、という存在が登場しなかったとしたら、どんなに殺伐とした物語世界が展開されていたのか、想像すると身震いがする。

大江氏の個人的な体験がジンという白痴の幼児を神格化させている、と書けばそれこそ陳腐な感傷の賜物だ、と穿った読みをする読者がいても不思議はない。それでもこの物語は、野鳥の声を巧みに聞き分けるジンの「ジョウビタキ、ですよ」だとか「ムクドリ、ですよ」といったカタコトの無垢さに救済されているといっても過言ではない。

結末に無条件に諾ったりはしない。それでも私はジンの柔らかな口調を夢に見て、涙を浮かべながら目覚めるほどに、そこに救いらしきものを見出したのだ。曖昧で根拠のない救いだろう。実際そんな救いは弱々しく、「現実」に対しては歯が立たないだろう。主人公であるところの勇魚の「樹木と鯨の代理人」なんていう現実逃避的なスタンスじたいに反発を覚える読者もいるだろう。それでもこの小説がとてつもない力を有していることを、誰も否定できない。

大江氏は私から見れば祖父の世代にあたる著述家だ。文学作品がひたすら空虚に、ひたすら弱々しい主張しか持たなくなっている(そもそも主張、があるかないかも疑わしい)時代に、巨匠の作品から学ぶことは、まだまだたくさん、ある。
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2005年10月04日

残酷。

こんなはなしを聞きながら豚はどんなに泣いたろう。なんでもこれはあんまりひどい。ひとのからだを枡ではかる。七斗だの八斗だのという。

宮沢賢治「ビジテリアン大祭」/角川文庫 p.172


本棚にあったので。引用は「フランドン農学校の豚」から。それにしてもこれは本当にあんまりひどい。ひどいけど我々が豚の肉を食べるためにどこか遠くの施設で実際に行われていることでもある。豚の胃に管を突っ込み無理矢理太らせて・・・ああもう「あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。」(p.176)、ベジタリアンにはこの先もならないと思う、きっとならないと思う、幾万の豚もこんなふうに泣いてはいないだろうと思う、だけれどもこんな手法で豚の嘆きを表現されてしまったら「このあとはやめにしよう」と想像力を遮断してしまうしかないのだ、あまりに残酷で。

モノをいただくときは、心から手を合わせていただかなければならない。
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2005年08月04日

サラサーテの盤/内田ひゃっけん

サラサーテの盤/福武文庫

やっぱり時間がないときは短篇。それにしてもヒャッケンセンセイの「ケン」、seesaa都合により登録不可、というのは日本語の衰退をモロに象徴していて哀しい限りでございます。

日本文学に疎い私が何故こんなのを持っているのかというと日本文学に造詣の深いoi.嬢が二度買いをしてしまったからでありがたく頂戴したのは随分前のことだけれど放っておくとついついカタカナ名前に手が伸びるので今更読みました。「ノラや」しか知らなかったので猫を探して探して探しまくる可笑しいまでに哀しいヒャッケンセンセイがこんな背筋が薄ら寒くなるような短篇を書いてらっしゃったとは意外でした。

どこまでも曖昧で輪郭がなくて骨子がなくてプロットなんぞはまるでなくて。あまりにも漠然としているのは正直なところ「???」と感じましたが表題作は「ツィゴイネルワイゼン」という鈴木清順氏の映画の原作にもなったそうで、しんみりといいオハナシでした。

二度買い、ついしちゃうよね。二度買い、ならぬ三度買い、をしたのはサルトルの「水いらず」、と書いたところで今月は無理に無理を重ねて「自由への道」読破を目標に、して、みます、ひー。
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2005年07月14日

死者の奢り・飼育/大江健三郎

死者の奢り・飼育/新潮文庫

もっとも初期の作品群、だそうです。「飼育」は芥川賞を受賞した作品ですがすごかった。市からも町からも分断された山奥の村に「敵」の飛行機が墜落し、黒人兵が捕虜になる−そんな状況はもう時代の波の中に飲み込まれてしまった遠い昔にしかありえない状況ですが、戦争とも隔絶されていたはずの村に異国の、それも「黒人」が突然出現したとしたら・・・子供らの熱狂と、期待と、畏れと、不安、それに大人たちの困惑と動揺が手にとるように分かるような気がしました。

べとついたものへの偏愛、たとえば「他人の足」の冒頭部分、「僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた」というような閉塞状況、そうして物事を根底まで掘り下げていってそこで見出されるものを裸のままで提示しようとする姿勢、それらはもう、言い古されたことなのでしょうけれど、どうしてもサルトルを彷彿とさせるのでした。

まだ、「大きな物語」が可能であった時代の、物語。
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2005年06月27日

羊をめぐる冒険/村上春樹

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羊をめぐる冒険 (上)(下)/講談社文庫

村上さんはこの小説を書くために仕事をやめて千葉に隠遁されたそうですね。デビュー作はまだ未読なのですがもうここにこの先の村上さんのお仕事の萌芽がすべて詰まっているような気がしました。

耳が異常に美しい女の子だとか不条理な状況に仕方なく(抵抗することなく?)巻き込まれていく主人公だとか、どこまでも決定的につきまとう「喪失」の観念だとか。

PR広告に使われた一枚の写真に写っていた小さな小さな羊の写真からこんな壮大な冒険がはじまるなんてまったくもうどんな想像力、いや、創造力が働いているのでしょう。「ノルウェイの森」よりずっとずっと面白かったです。

星の徴を背に負った羊、を本気で探しにいこうかな、ニュージーランドあたりへ。
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2005年06月20日

われらの狂気を生き延びる道を教えよ/大江健三郎

われらの狂気を生き延びる道を教えよ/新潮文庫

万延元年のフットボール」しか読んだことがない、というのはやはりちょっと反則だなと思っていたのでジュンク堂の新潮文庫コーナーの前に立ってどれが読みたい? と自分と相談してみたらやっぱりこんなタイトルの本を読みたい、と。

1967年から1969年までの間に書かれた5つの中篇が収められています。それらはすべて私が生まれる前に書かれていた作品なわけで。おそらくその時代というのは今の時代とは完全に分断されていて、「戦争」という概念は今現在の日常にどんな影も落としておらず(戦争ではなく、内戦、テロ、といった言葉に置き換えられてより局所的に、深刻に、「闘い」は続いているにもかかわらず)、たとえば職場の同僚に「何読んでるの?」と聞かれれば「ちょっと、昔の、本」とかなんとかお茶を濁さなければならないような「古めかしい」「小難しい」作品になってしまっているわけですが、全篇を通して緩いところが一切なく、恥や、醜いもの、弱いもの、触れるのを憚るものに対して鋭敏に、逃げることなく、立ち向かっていく硬質な筆致は何年たっても価値の薄れるものではありません。

今更だけど、読みにくいのも確かだけど、外国文学ばかり読んできたツケを支払わなければならないなーとしきりに反省している次第です。
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2005年06月17日

ノルウェイの森/村上春樹

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ノルウェイの森〈上〉〈下〉/講談社文庫

でまあ色々あって文庫本で読んだわけです。

どうして「彼」がこの本をあの時期にハードカバーでおくってこなければならなかったのか、まったくもって分かりませんでしたが当時私はそんなに脆そうだったのでしょうか? 登場人物があまりにも簡単に死を選んでいくことに軽い苛立ちを覚えながら「どうしてこんな陰鬱な物語がベストセラーになったのか」考えていました。

繊細なふりを、ナイーヴなふりをしたい人にはもってこいの題材だったから?

そんな「ふり」をしたい時期を走り抜けてから読んで本当によかったと思いました。私に本をおくってくるなんて100年早いんだよ、バカヤロ。

「自分に同情するな」、「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」。

まったく、その通り。
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2005年05月26日

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉〈下〉/新潮文庫

やみくろだとか、ちょっと太った女の子のピンクのスーツとか、二本の銀のブレスレットだとか、そんな細部のことは鮮明に覚えていたくせに物語の筋はまったく忘れ去っていて、久しぶりに読み返してううーんやっぱりすごいとうなったのでした。

登場人物がやたらと非現実的であることや、やたらと美味しいものが食べたくなってやたらとビールが飲みたくなることや、もうこんなの読み始めたらいわゆる普通の「小説」なんて読めなくなってしまうことも承知で、私はまだまだ村上さんの作品を読み残しているのでこれからしばらくどっぷり漬かってみようかと思っている次第です。
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2005年05月03日

海辺のカフカ/村上春樹

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海辺のカフカ (上) (下)/新潮文庫

田村カフカは掟の門前を一瞬のためらいもなく通り抜ける―。

なんてことはどうでもいいのですがすごい衝撃を受けています。最初のうちは、甘ったるい物語だと感じていました。そう、下の方にあるメモのエントリをした頃には。ナンデ猫がしゃべってんだよ? って。

でも多分コレは事件です。平成14年にブンガクの世界に起こった大事件です。あらゆる文学的技巧がこれでもかといわんばかりに詰め込まれ、そうしてそれが何の外連味もなく、真正面から一番重いテーマ―つまり生きるとはどういうことかということ―とぶつかり合っているのです。私はあんまり新しい小説を読みません。ですからぶったまげました。日本の小説というのはここまで来てしまっているのか、って。世界に紹介されてしかるべき作品です。そうして「文学理論」というものを駆使するとこういう作品ができあがるのだということを知らしめてやるといいです。おそらくそういう研究ももう既になされていることでしょう。なんせもう今は平成17年なわけだし(・・・)。

スティーヴ・エリクソン「黒い時計の旅」以来の衝撃。

章ごとに話者が入れ替わり、一人称と三人称が交錯し、そのうえ下巻に入ってからは前の章が後の章より時間的には先を行っている、という入り組んだ構造をしています。ちょっと違和感を覚えることも確かですがそんなことはどうでもよくなってきます。面白いのです。とにかく。感覚的な言葉が観念を徹底的にもてあそぶのを眺めていたらメタファーの迷宮のなかで迷子になっていていつ、どうやったら抜け出せるのかと必死で頁を繰ってしまう、そんな感じ。先の展開はまったく読めません。一頁先は闇。

ヂツは村上さんの作品は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、「ねじまき鳥クロニクル」、「アンダーグラウンド」しか読んだことがないのです。ちょっとそんなことではいけないなと今すぐジュンク堂に走りたい、午前2時。
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2005年02月15日

四季 冬/森博嗣

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四季・冬/講談社ノベルス

うわーお、禅・問・答!!

ブラーヴォブラーヴォと両手を叩いて踊りだしたいくらい私ひとりだけ喜んじゃってるのですが、自分を取り囲む世界に対して「私が作ったものじゃない? 全部、私が想像して、頭の中で、私が動かしているお人形なんじゃない?」という浮遊感を感じたことのある人ならこの禅問答を楽しめると思います。

ソウゾウ、という言葉は想像、であり創造、である、なんてことをちらりと考えました。

構築知性がなんだかよく分かりません、四次元螺旋の投影による擬似構造の相転移と言われてもただ漢字を読むことができるくらいです、長鎖分子アクチュエータのフラッタ問題? カーボナノコイルサスペンションによる人工微生物??? ナンデスカソリヤ?? そうです、森さんは某国立大学の「工学部」助教授なのです。そして私は英文学専攻、文学理論とか宗教学とか哲学とかをちょこっとかじった単なる文系、それも一次関数さえ解けないウルトラ文系です。けれど森さんの本を読んでいると「理系」とか「文系」とかいった枠組みなんかはるかに超えて、何もかもがひとつになる一点、すべてのことが収斂されていくとある一点に意識が向かっていくのです。

この「冬」は随分と難解でした。非常に抽象的で、言葉も繊細で、ときに装飾過剰で、ときに冗長だったりもしましたが、四季シリーズの終焉にふさわしい内容だったと思います。

あーもー終わっちゃったなー、さみしーなー、次はVシリーズかなー(サル)。
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2005年02月14日

四季 秋/森博嗣

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四季 秋/講談社ノベルス

うわーついにここまで来ちゃったかあ。

というわけでこの「秋」はS&Mシリーズ未読の方にはなんのこっちゃらちっとも分からないお話だと思いますが犀川センセイと萌絵ちゃんその後はどうなるんだろうと少しでも思ったことがある人ならば「うわーついにここまで」とにやにやしてしまうこと請け合いです。昨日も書きましたけどもはやそこには堅固な「森ワールド」ができあがっているのです、そうして私たちはそのおもちゃ箱のような森ワールドをうわーうへーすごーそうなるのかーときょろきょろ探検させていただいているのです、掌の上でころころと転がされているのです、それが心地よいのです。

テンポのいい会話がステキです。「秋」は前2作に比べてかなりくだけた感じです、「有限と微小のパン」の続きなのだからまあくだけていて当然でしょう。にしても「有限〜」はくだけすぎでしたが。なんせそのくだけた、短い会話の間にさしはさまれるのは、やっぱり厭世的な哲学的言辞で、今回のテーマは、「愛と赦し」。

さ、今から「冬」。
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2005年02月13日

四季 夏/森博嗣

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四季 夏/講談社ノベルス

天才、綻ぶ。

真賀田博士だって肉体を持っている(まあ、作中人物ですけど)んですもの、そりゃ綻びます。「まだ13年しか生きていない」くせに「もう13年も生きた」と独白する(「もう13年も」、という表現が説得力を持っているのはひとえに森さんがこれまでの著作で築き上げてきた「真賀田四季」像があるからです)四季さんが恋をしています、戸惑っています、どうしたらいいのか分からない、という思考停止状態に陥っています。

天才が空間と時間を意識しはじめています、肉体という窮屈な枠に閉じ込められていることに葛藤を感じています、やはりこのシリーズは「物語」でした。「すべてがFになる」の背景にはこんな物語が隠されていたのでした。

それにしても驚嘆すべきは森さんのこのパタフィジックともいえる「構想力」です。すべてはない、のです、単なる小説世界なのです。なのに細部が細部に結びつき、厚みを持ち、そうして完璧な円環を構成しているのです。どこにもないのにたしかにある世界をもうひとつ作り出してしまっている、とも言えるでしょう。

エンターテイメントなんですけど。それもとびきり、極上の。

あまりに極上なので「春」「夏」しか買わなかったことを非常に後悔し、自転車に飛び乗ってジュンク堂に走りました。さ、次は「秋」。
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2005年02月12日

四季 春/森博嗣

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四季 春/講談社ノベルス

いやあ、またまたステキなお楽しみシリーズに出会えました。「すべてがFになる」で多分読んだすべての人に強烈な印象を残した真賀田四季博士の、この「春」は幼少期、ですね、とにかく春、夏、秋、冬、とあるわけですから、いやあ、楽しみです、珍しく2連休ですが退屈せずに済みそうです。

森さんの著作ですから。ミステリなのかな、とも思いました。もちろん死体はあります、おなじみの密室もあります。けれどそれはおまけです。謎解きなんてないし、探偵もいないし、解決もありません。ノベルズなのに一段組み(笑)、余白の非常に多い(もっと笑)、1時間程度で読めてしまうようなものですが、真賀田博士の言葉は簡潔にして重く、鋭く、そうして完璧です。

おそらく彼女のような存在は紙の上でしか存在できないでしょう、いや、紙の上だからこそこんな超絶的な天才が生まれた、というべきでしょうか。紙の上=現実を超越した場所、だからこそ彼女のような非現実的な存在が許されるのです、そんなことは分かってはいるのですけれどこの天才を生み出した森さんという「現存する」天才はいったいどんな頭脳の持ち主なのかな、と想像を逞しくしてみたり。

「どうして、外へ出ていって、細かいこと、無駄なこと、不合理なこと、どうせいつかは消えてしまうようなことに、関わらなければならないのか」、詩的な言葉を選んで綴られた、厭世的な一種の哲学書のような味わいすら感じられるホントにステキなお楽しみ本です。もちろん私は「すべてがFになる」を読み終えたときからずっと真賀田博士のファンなので。Vシリーズは未読ですが紅子さんも登場します。多分森さんも、すごく楽しみながらこの本を書かれたのでしょう、私もすごく楽しみながら読ませていただきました。
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2005年01月28日

コインロッカー・ベイビーズ/村上龍

コインロッカー・ベイビーズ コインロッカー・ベイビーズ(下)
コインロッカー・ベイビーズ(上)(下)/講談社文庫

もう何度目になるのか分からないけれどとにかく時々唐突に読み返したくなり、そうして読み返した後はとにかくよく分からない感情にとらわれてとにかく無性に猫の心臓の音を確認したくなる、のがこの本です。

内容については何も語りたくはありません、私が持っているのは89年発行の第16版で、巻末には三浦雅士さんの解説がつけられていますがこの本をバタイユなんかで解釈するのはお門違いもいいところだと思うのです、たしかにはじめて読んだのは高校生の時でそのときは「呪われた部分」ってなんだろうとか「ポトラッチ」ってなんだろう、と小賢しい好奇心を全開にして多分その頃文庫で読めた唯一のバタイユの作品、「マダム・エドワルダ」を読んで結局今いるような迷路に迷いこむ、あまりささやかではないきっかけになったのも事実ですが、もうとにかくそんな解説なんかいらない、定期購読してる「大航海」を解約しようかと思ったくらい、この物語を「解説」することにむかっ腹が立ちました。

何故なら私の四方を取り囲んでいる「コインロッカー」の壁は本棚に並んだバタイユ全集に他ならないから、言いたいことを言い切れないから専門用語で武装し難解な言い回しで迂回を繰り返し結局事の本質には永遠にたどり着かない、「思想」とか「哲学」とかいわれている言葉こそがこの息苦しさの原因に他ならないから。

あるとき「トパーズ」を読み始めてそれを思いっきり壁に向かって投げつけて以来、私はこの「コインロッカー・ベイビーズ」と「愛と幻想のファシズム」以外の村上龍さんの作品を手に取ろうとも思わなくなったのですが、この作品に結晶化されている凄まじい才能を私はいつまでも愛すると思います。ただその才能が極上のワインや極上のグルメに溶かされて跡形もなくなってしまったのかと思うと例のおまじないの言葉を唱えたくなるのですが。
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2005年01月12日

センセイの鞄/川上弘美

センセイの鞄
センセイの鞄/文春文庫

発表当時から随分と話題になっていましたし、「センセイ、帰り道がわかりません。」という帯につけられた文章も、いつも路頭に迷うたびに「センセイ、センセイ」とうわごとのようにくりかえしている私にとってはそれだけで痛切に胸をついてくるものであったわけですが、日々「読まなければならないもの」に追いかけられている私はなかなかこういった軽いタッチの物語に接することが困難で、文庫化されてからもかなり日がたってからの読了となりました。

心温まる恋愛譚、との触れ込みであったし、実際センセイとツキコさんのやりとりは穏やかで優しく、微熱的で、読んでいて胸のはじっこがこそばゆい感じがしました。美味しそうなアテと、美味しそうなお酒がすごく印象的に描かれていて、非常に「味わい深い」会話が繰り広げられます。

ただ・・・文庫本238頁までで川上さんが筆をおいていたとしたら、私はもっとこの物語を好きになったと思いました。ここで終わっていてくれたら・・・もっともっと、この小説世界は美しく幻想的なものになっていたのではないかな・・・なんて。
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