2009年03月01日

根をもつこと

根をもつこと
シモーヌ・ヴェーユ 山崎 庸一郎
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ずっと『著作集』でしか読めなかったし、品切れ状態で、アマゾンでもアホみたいな値段ついてましたが、春秋社より新装版で出ています。実を言うとそのアホみたいな値段で買ったうちのひとりなのですけどまあそれはおいといて、今年ヴェイユ生誕100年、この魂の美しさ、気高さは不滅。

「義務の観念は権利の観念に優先する。権利の観念は義務の観念に従属し、それに依存する。一つの権利はそれ自体として有効なのではなく、その権利と対応する義務によってのみ有効となる。」

義務を放棄して権利ばかりを言い立てる時代に、本書が白く鋭い槍となって深く厳しく突き刺さらんことを。
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2008年05月13日

前期ヴェイユ(1934)

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)
シモーヌ・ヴェイユ 冨原 眞弓
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ああ、ついに岩波に入ったんだ、とありがたく買って読まずにそのまま放置してた一冊。東京創元社『抑圧と自由』は昔読んだ。この岩波版は「自由と社会的抑圧との原因についての考察」を抜粋したもの。どちらかというと創元社のほうがほかの論文(「われわれはプロレタリア革命に向かっていくのか?」「テクノクラシー、ナチ主義、ソ連、その他についての考察」etc.)が入っているので良いんでは、と思うがこの岩波版は訳者の冨原氏による親切丁寧な訳注がついている。表カバーの写真も素敵だ。

久しぶりに読むと辛い。マルクス主義を生産力の際限なき発展なんかあり得るわけがないじゃないか、という視点から批判した第1章は今なお価値がある。だが続く2章3章はあちゃー、という感じ。労働賛歌、として読めば明日への活力くらいにはなるかもしれないが。「若干24歳のときに書いた」という言い訳が後代によって用意されていることをヴェイユ本人が知ったら烈火のごとく怒るだろう。ただしこの論文がヴェイユの工場体験以前に書かれたものであることは付け加えておかねばならない。自ら『遺書』と呼んだこの論文の完成後、彼女は「労働者」のなんたるかを知るべく工場へ足を踏み入れる。そこで完膚なきまでに打ちのめされて自らに奴隷の刻印を刻むわけだが、「未完成の仕事の光景は、笞が奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間をひきよせる」といったような表現が夢想にすぎなかったと悔いたことであろう。

だが第4章は良い。とことんペシミスティックで、それでいて最後にはとってつけたように希望の切れ端が貼り付けられている。「われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている」。そう。だから。「なんら責任を負う気のない奴隷たちは上司たちに服従するわけだが、当の上司たち自身も監督すべき事物の量に圧倒されているだけでなく、奴隷たち以上にいっそう広範囲において無責任を決め込んでいるので、労働の遂行じたいにおいても無数の不手際や落度がひきおこされる」。ええ。まさに。「大工場群が作り出す産業徒刑場では、奴隷を製造するのが精いっぱいで、自由な労働者どころか、ましてや指導的な階級となりそうな労働者を鍛え上げるなど論外である」。ああ。なんて非道い表現。別にどこを引用したっていいんだけど、自虐的といいたいような考察をこれでもか、とたたみかけたうえで、「このように方向づけられた一連の考察が、社会組織のその後の進化になんら影響を与えずじまいであったとしても、だからといって価値がないわけではない」、と結ぶ。何も変わらないだろう、それでも、という、あきらめを前提とした努力。このあたりは、のちのいわゆる「後期ヴェイユ」といわれる宗教思想のなかにも、綿々と受け継がれている。
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2008年05月08日

焚書!

シモーヌ・ヴェイユ入門 (平凡社ライブラリー)
ロバート コールズ Robert Coles 福井 美津子
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発売直後に買って2章ほど読んでふざけんじゃねー!と思っててっきり捨てたと思ってたのにしぶとく本棚にいたので今度こそ読み終えて焚書の刑に処してやる、と鼻息荒く。わざわざ段落を変えてまでアンナ・フロイトにご高説を述べていただく必要がどこにあるのか。ヴェイユの死と拒食症をつなげることじたいあながち間違っていないと思うけれど、だからといってヴェイユはコーヒーとケーキのよろこびを果たして知っていただろうか?と問うのはお門違いもいいところだ。まるで私のところへ相談に来ていてくれたら彼女を救えたかもしれない、とでも言いたげな論調に激しく苛立つ。そもそもヴェイユはこの手の身勝手な救いをこそ拒否したのではなかったか?神への飢えを拒食症に、ユダヤ人問題をストックホルムシンドロームに置き換える、こういう臨床医が「思想」を殺す。そもそも思想を精神分析の範疇におさめてしまおうとすることじたいに矛盾があるのだ。なんらかの狂気を孕んでいない思想なんかクソだ。

ヴェイユの入門書なら同じ訳者の

シモーヌ・ヴェイユ―ひかりを手にいれた女性 (20世紀メモリアル)
ガブリエッラ フィオーリ Gabriella Fiori 福井 美津子
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こちらをお勧めする。参考文献の一覧も充実していて役に立つ。

とまあたかが概説書一冊読んだだけでも斯様に熱くなれるところがヴェイユのすごいところである。ああ胃が痛い。
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2008年03月02日

ジジェクはこう読め!

ラカンはこう読め!
鈴木 晶
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こう読め!といわれても「ラカンについて」のことなどまるで書かれていないという詐欺みたいな一冊(笑)。ジジェクが大好きな映画やら政治状況やらをラカンが読んだらこうなるでしょう、というジジェク節全開の現代思想超入門本。たぶんタイトルは『ラカンはこう読む。』がふさわしい。次はどの糸を引っ張ってくるんだろうか、次はどんな屁理屈をこねてくるんだろうか、というスリリングさに満ちてはいるけど第7章「政治のひねくれた主体」なんてサド=マゾ倒錯と全体主義と宗教的原理主義がシェイクスピアと並走しながら不信の問題にたどり着こうとしてたどり着けず、結局何を書いてるのかさっぱり分からなかったり。でも頭の体操には良い。逆説的な言説をふりかざしてひねくれた冷笑を浮かべてみたいときの参考書にはもってこい。で、このへんでそろそろ『ジジェクはこう読め!』みたいなのが出てもおかしくないと思われる。
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2008年02月21日

マチウ書試論/転向論

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)
吉本 隆明
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下で「転向」なんて使い慣れない言葉を使ったものだから読んでみる。たぶん10年ぶりくらい。そして何も覚えていないことに気づく。実は読んでなかったんじゃないか、と思うほど。「もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」、こんな言葉を一度読んで忘れてしまうことなんてあるんだろうか。エリアンの手記と詩の瑞々しい青さに10年前の私は酔わなかったのだろうか。

それにしても「マチウ書試論」である。こうまでラディカルなマタイ伝の解釈はほかにない。宗教性を切り刻み、神秘性を剥ぎ取って、原始キリスト教の底意地の悪さをえぐってみせるやり方はときに爆笑を誘う。私はキリスト教に対して吉本氏と同じスタンスに立ってはいないが、この力強さは敬服に値する。「関係の絶対性」という言葉の強さに久しぶりに身体が引き締まる。

そして「芥川竜之介の死」。芥川、という名が想起させる一切の幻想を排した冷徹な論考。ボオドレエルの百行は人生の一こまにも若かない、の一行に冷や水を浴びせられる。

「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである」、という下りが正鵠を得ているとは正直あまり思わないのだが、「転向」を狭義のマルクス主義的文脈から引きはがし、日本思想史ぜんたいの節操のなさに向ける視野の広さに、うなった。

ここに書かれていることは、まるで遠い国の遠い昔の出来事のようであるけれど、半世紀前のこの国では、斯様に熱く重い言葉が日常的に吹き荒れていたことを思う。今は軽い時代だ。そして薄い時代だ。
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2008年01月28日

世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない

雄羊 (ちくま学芸文庫)
Jacques Derrida 林 好雄
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ガダマーへの、ツェランへの、デリダという権威による、過剰に美しいオマージュ。「世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない」というフレーズから無限に展開される解釈の嵐。フロイト、フッサール、そしてハイデガーをひいてこれでもか、と美文を重ねる様はまるで「お手本」である。このとてつもない無益さが、文学理論の、文学批評の現在である。

それでも友をなくした私にはこの解釈は胸に痛い。記憶を内化して、理想化して、消え失せた貴女の世界を、「私がおまえに借りがあり、おまえを担う義務が私にあるときに、私が義務を負っている以上、また私がおまえに話しかけ、おまえについてあるいはおまえの前で責任がある以上、」担わなければならない。内面化された果てしない対話を繰り返すことで、貴女を異質な他者としてでなく、自分自身として自己固有化することで。

結局人は自分の読みたいと願うものをその文面に読み取る。

本文とほぼ同量の訳注、解説もなかなか充実していて、愛すべき小冊子であった。
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2007年05月01日

素晴らしいオマージュ

リチャード・ブローティガン
藤本 和子
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この本は素晴らしい。ブローティガンの翻訳者である藤本さんの筆による、ブローティガンについての本、決して研究書でも評論でも評伝でもなく。まるでブローティガンの言葉を補完するように響くひとつひとつの言葉が本当に素晴らしい。

巻末近く、ちょっと力の入った調子で述べられた以下の一節。
片腕では生きていけないと考えた青年にたいして、人間は片腕だけでも生きていけると説教することはやさしい。しかし、それでは生きていけないと主張した青年の心の動きを理解することはできるのか。

わからなければ、われわれは沈黙すべきである。普遍的と見なされているような知恵をもって、他者の行動を判断することは傲慢だ。わからないことをわかったといってしまう思いあがりに対抗する方法としての文学を、ブローティガンは想定して、その態度をつらぬいた。かれの作品は、人物の心理や性格が詳しく書かれたことがない、という批判は山ほどある。それができなかった、という前提での批評だろう。しかしそれはかれの強みだった。人物をよく知っているという前提で書くことにつきまとう倣岸を、かれは拒絶していた。人格は行動でしめし、行動する人間の観察者として自らの役目を限定していた。(235p)

そして、藤本さんも、そうした。断定もなければ、解釈の押し付けもない。インタビューや、回想をまじえながら、たくさんの章を重ねるようにして構成された本書は、「人物をよく知っているという前提で書くことにつきまとう倣岸」とは無縁である。

なんだか泣きたい。おそらく悲惨であったのだろう、ブローティガンの生い立ち。想像力の翼による脱出。挫折。孤独。自死。だがそんな悲惨ですら、詩人は自己憐憫を退け、そうして訳者は安っぽい同情を退け、あくまで冷静に、一定の距離を保ったまんまで描き出してみせる。
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2007年04月20日

批判になってない。

中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて
島田 裕巳
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やっかみ以外のなにものでもない、と一蹴、しようかなと思ったけど、あれからもう12年の歳月が経った今になってこういう本がわざわざ出版されなければならなかった理由がなにかあるのではないか、と期待しながら読んだ。見事に裏切られた。有象無象の根拠のないオウム論が飛び交っていた頃に書かれた島田氏の「私の『中沢新一論』」(宝島30/1996年6月号)と同じことしか書かれていなかったから。追加されているのはコミュニストの子どもとして、という章くらいなもので、コミュニストの子どもだったらどうだ、っていうのだ。腹が立ってしまった。

最近の中沢氏の活躍には目をみはるものがあり。読売新聞に連載「小説」が掲載されるにいたっては、性急な「復権」に驚いた。その目をみはる著作の充実振りを眺めつつ、本当に大切なことを、まだ書いてらっしゃらないんじゃあないの、と私のような者でも、思っていた。だから帯たたきに付された「彼は逃げている」という赤字には一抹の真実がある。

総括を、するのかな、と思って期待していた「とびきりの黄昏」は未完のままだし、「邪宗門」のような小説もまだ書かれていない。『アースダイバー』や『芸術人類学』を読むかぎり、その方向は周到に避けて通っているようにも感じられる。

安全や平和や繁栄だけを説くのが思想ではない。良い子ちゃんぶった処世術しか書かれていない思想書にはうんざり。いつか中沢版「邪宗門」が読みたい、と切実に思った。

「私の『中沢新一論』」を読み返してみると、「僕は正直なところ、これ以上中沢君にはオウムの問題に深入りしてほしくはないと思っている。それはかなり危険なことに結びついていく可能性があるからだ」と締めくくられている。そう書いた島田氏が今回、事件について語る責任を云々するのを読むのは、やっぱりあんまりいい気分がするものではなかった。
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2007年04月18日

激怒せよ 激怒せよ

マクドナルド化する社会
ジョージ リッツア George Ritzer 正岡 寛司
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数年前に途中まで読んでほったらかしにしてあったので売りとばすために読み終える。一言で要約すれば合理性の非合理性、というなんとも奇妙な日本語に尽きる。もうちょっとこなれた言葉になおせば「便利になることはいいことばっかじゃないんだよ」だ。こなれすぎ(笑)。

だいたいここに書いてあることは我々が日常生活を送っているうえで体感していることばかりなので、マクドナルドを適当に利用すれば良いように、この本も適当に読み流しておけばそれで良い。あんまりこの手のことに目くじらをたてても今更仕方ない。

がとりあえず本書を読み終わった後には、「入り口で金券を買って、店員にそれを渡し、珈琲を出してもらって、自分でそれをトレイに乗せ、席まで運ぶ、という作業」に「ふざけんなー!」と思うようになるだろう。知らず知らずのうちに随分無償労働させられていることに意識的になる。昨日行った某地下街の某セルフ式喫茶店なんて、椅子のひどさは言うまでもなくBGMが「くたばっちまえ、アーメン」に「セーラー服を脱がさないで」であった。一刻も早く出ていってもらいたくて仕方がないらしい。

「マクドナルド化」シリーズはそれこそ量産されていて、
マクドナルド化と日本
ジョージ リッツア 丸山 哲央
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こんなのもある。どちらにせよ表紙を眺めているとついおなかがすいてくるのは事実。巻末で著者が冗談まじりに列挙した「マクドナルド化に対抗するため」の項目を実行するよりも、マクドナルド化した胃袋に逆らうことのほうがはるかに難しいような気がする。とにかく「怒り」を忘れることは非人間化に繋がるそうである。「あの快い夜のなかへおとなしく入っていってはいけない。光の滅んでゆくのを激怒せよ 激怒せよ」というディラン・トーマスの詩で本書がしめくくられているのが印象的であった。
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2007年01月11日

穏やかなシオラン

オマージュの試み
E.M シオラン 金井 裕
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ラテンアメリカのある地方では、「何某が<無関心>になった」といって死亡を知らせる習慣があるらしい(p.22)。無関心は死である。たしかに。

シオランの筆によるガブリエル・マルセルやエリアーデ、カイヨワが異様なまでにバイタリティに溢れていて軽く驚いている。対象についての「愛」を感じさせるような文章をあのシオランが書いている、というのはすごく不思議な感じ。

巻末でかの名著(迷著か?)『崩壊概論』をぶったぎっていて、また椅子からずり落ちそうになった。「簡潔な表現、無愛想な表現、こういったものへの私の偏愛ぶりはますます強くなり、感情の激発など捨ててかえりみなくなりましたが」ってちょっとそれは(笑)。

『絶望のきわみで』と『崩壊概論』にはモロに影響を受けたクチだが、正直なところ今ページを繰ると赤面してしまうことも多々ある。シオランは良い老い方をしたのだな、と、思うとなんだかほっとした気分になった。
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2006年08月08日

SOME OF THESE DAYS

サルトル『むかつき』ニートという冒険
合田 正人
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著者は従来『嘔吐』として知られてきた『LA NAUZÉE』を強引に『むかつき』と訳してしまうのだが『嘔吐』に慣れ親しんだ身としてはこの「むかつき」という語に出合うたびむかつきを禁じえない。

のはさておき、

おまけに「ニートという冒険」というサブタイトルは販促のためのもので内容はまったくリンクしていない。

のもさておき、

非常に散漫ながらさまざまな領域に渡ってさまざまなとっかかりを与えてくれる、という意味ではまさに「理想の教室」なのではないだろうか。逆に言えばこれを読んだだけでは何も分からない、ということにもなるが(笑)。サルトルをラカンで考えてみたことはないが、確かに『嘔吐』は鏡像に対して非常に意識的な小説である以上、そういう読み方をしてみるのも面白いかもしれない。ただ実存に対してライプニッツの充足理由律まで持ち出すのはどうか。キミがそこにいるのには十分な理由と根拠があるんだよ、などと言ってしまえば『嘔吐』は一瞬にして陳腐な小説に成り下がるではないか。

のもさておき、

合田「センセー」のぎこちない口語体がなかなか笑える。

のもさておき、

『嘔吐』を読んだ人なら記憶の片隅に残っているかもしれないが、ロカンタンがカフェでかけてくれ、と頼む曲、文中には<Some of these days, You'll miss me honey>の歌詞、旧人文書院版では「いつか近い日に」というタイトルで訳されていた曲がソフィー・タッカーという人の「今日この頃は」という曲であったことが分かっただけでもこの本には価値があった。

Last of the Red Hot Mamas
Sophie Tucker
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ちょっと怖い(笑)けど聞いてみることにする。
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2006年02月22日

ほっとする

論理哲学論考
Ludwig Wittgenstein ルートウィヒ ウィトゲンシュタイン 中平 浩司/ちくま学芸文庫
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たとえば朝会社に行ったら机の上に今にも雪崩打ちそうなくらいの書類がでん、と詰まれていて、しかもその大部の書類が「ミスを減らすためにわれわれはこのような努力をしております」とアホくさい新運用を延々と書き連ねたものであって、そのうえそれにいちいちハンコをついてなおかつ周知のための回覧を作らなければならなかったり、

たとえば研修内容のすりあわせ、だとかシステム改変に伴う処理変更の落とし込み、だとかのためにあれはこうでそれはそうだけどこれはこうなのでそういうわけにはいかないと思うんだけどそれでいいでしょうか、いえいえそれではこちらで不都合が生じる、あちらで不公平が生じます、ええっとだったら一体どうしたらいいんでしょうか、どうしたらいいんでしょうねえ、と、日がな一日決して結論の出ない相談という名の雑談にうつつを抜かさなければならなかったり、

そんな「現実の生活」にどっぷりクビまで浸かって息が苦しくなってきたときなどに、さっとバッグからこの文庫本を取り出して、どのページでも構わないから、簡潔にして深遠な文章を味わうと、とにかくほっとする。

「世界は私の意志から独立している。」(6.373)

こんななんでもない、淡々とした、冷たい感触の言葉に触れるだけで、アタマにのぼってた血がすーっとひいていく。

法政大学出版局の叢書ウニベルシタスでしか持ってなかったのだけれど、こないだジュンクでこれを買った。岩波からも出ているけれど、こっちの方が読みやすい。論理哲学論考、だなんていかめしいタイトルがついているからといって畏まる必要は別にない。文庫でいつも持ち歩きたい、清涼剤みたいな一冊。
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2005年10月07日

フロイトは嫌いなの。

フロイトが患者を、過去における固着から自由になれないために、現在に支障があると見なすのに対して、ユングは患者の過去への固着は、現在における障害に由来すると考えたのである。

A・ストー「ユング」/岩波書店 同時代ライブラリー p.157


本棚の整理をしているといつ買ったのかも分からない本が何冊も出てくるのだけれど本書もそのうちの一冊。なんてことはない、とても平易なユング入門本。フロイトとユングの「差異」をとても分かりやすい(分かりやすすぎる)形で提示してくれるので脳味噌の整理には役立つ。引用部分はその最も顕著なところ。私がフロイトを忌み嫌うのはなにもかもを「幼児期」の体験に還元してしまう点。

だってさ、幼児期の体験でその後のすべてが決定されてしまうのなら何のために生きてんのよ、ってことになるじゃない。現在に障害? ありまくり、だけど、私は幼い頃父がほとんど家にいませんでした、だから「父の禁止」を知りません、だから超自我が正常に形成されていなくてすぐに怠惰な方向に流れます、ってーのは単なる言い訳にすぎないだろ、と単純に思うのでフロイトよりはユングを信用したくなる、のだなということを再認識。
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2005年09月10日

たしかに妖しい

ああ、おまえ、夢みがちなペニスよ。おまえは胞衣のごとき包皮に包まれて、太古の夢をまどろむ。むきだしになった亀頭がすでに忘れ去った神話の夢を、おまえはまだ見失っていない。一神教のしるし、包皮切開手術よ、呪われてあれ。深々とかぶったずきんの中に、子供と老人の知性が守られ、息づく。母は何を守ろうとしているのか。胞衣に包まれてあるときにだけ、ファロスは知恵となることもできようものを。

中沢新一「精霊の王」/講談社 p.88


たーしーかーに妖しいな、ここだけ切り取ってみると(笑)。でもこの妖しい文体の後ろでぴちぴちはねている奔放な想像力とそれを纏め上げる論理的思考の強靭さには唸らされるばかりだ。ぐぅの音も出ない。圧倒的に普遍的で、深い。古層から湧き上がってくる、確実な知性。この人は何かを知っている、世界のはじめから隠されてあることに、じかに触れている。

なーんて誉めすぎかしら。
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2005年09月05日

言語の裏切り

人はものを書くときには言語に身を任せないではいられない。しかも、もうここから先は任せきりにしない、というようなことができない。書くことの敗北は、人が言語に寄せる信頼のうちに存している。敗北は、絶えずそのたびに繰り返されて、この信頼を宙吊りにせずにはおかない。

ジャン=フランソワ・リオタール「インファンス読解」/未來社 p.37


言語の裏切りへの復讐、としての「ユリシーズ」(初版は1922年)。「言語」が裏切るなら「言語体系」を破壊してやればいい、といったような。言語が歪むから時間軸がずれるのか時間軸がずれるから言語が歪むのか、とにかくジョイスのようなねじれは天才にしか編み出すことができない。言語が裏切っていく様を克明に言語でトレースすること、それでも裏切りが裏切りを呼ぶ、余剰部分、インファンティア、レオポルド・ブルームの一日はすべて描かれたわけではない、または別様に描くことも無限に可能であったはず。

常につきまとう「言語をもたぬ幼児期」、すべての言語は外延にすぎない。
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2005年06月19日

カルカソンヌの一夜/大木健

カルカソンヌの一夜―ヴェイユとブスケ/朝日出版社

せっかく「そこ」に行くのだからこの本だけは連れていかないとな、と思ってわざわざ旅行前に大学図書館まで行って借り出してみたのです。地下書庫にしまわれていた本書、返却期限を記したスタンプを確かめてみると前回分は「1995.9.21」。それって私じゃん。私しか読んでないじゃん(笑)。

いまどき、ヴェイユもブスケも時代遅れもいいところで。

カルカッソンヌの書店でも、ブスケの本があるか訊ねてみたところ年配のおばあさんは驚いた顔をして「置いていません」。日本でもブスケの著作は原書でしか読めません。私も「Litterature du vingtieme siecle」というAndre Rousseauxが編集した全集本でよく分からないながら流し読みをしたことがあるだけです。

この本のおかげでブスケが晩年をすごしたという古ぼけた建物を見上げることができました。ヴェイユとブスケの往復書簡の翻訳もついており、1942年の春、カルカッソンヌのあの場所で起こったふたりの邂逅について詳しく知ることができます。
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2005年03月26日

シモーヌ・ヴェイユの「善」について/門脇洋子

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シモーヌ・ヴェイユの「善」について/新風舎

間に合ったーっ!!

・・・って今月ホントにもう更新できないんじゃないかななんて思っていたのですよ、今の時期ヴェイユは毎日ちょろちょろと拾い読みを繰り返しているのですが検索かけててひっかかってきた本書がとても気になっていたもので。

「シモーヌ・ヴェイユについて何か書かなければ・・・と思いつめていた二十代から・・・」と著者の門脇さんはあとがきに書いてらっしゃいます、私もヴェイユについて何か書かなくては(それは多分「善」というテーマではなく「不幸」というテーマになるでしょうけれど、もしくは「狂気」か)と二十代の頃から思い続けて三十路を迎えたひとりでありまして、やはりヴェイユという人は強烈な磁力を放つ、極端で、過剰で、深い人なのだなあと改めて認識しました。

本書は「超自然的認識」(勁草書房)からの引用を各所にちりばめながら(1)善とは何か(2)待ち望むこと(3)善との出会い−十字架について、という構成で論じられる小さなヴェイユ論です。きれいな言葉に満ちています、正しく強い思索に満ちています。

わたしがこの地上のすべての事物を偽りの善であるとして、こうしたものから自分の願望をそらすならば、自分は真理のうちにあるという絶対的で無条件な確信がわたしにはある。それらは善ではない、虚偽に与するのでないかぎりこの地上のなにひとつ善とはみなされえない、この地上のすべての目的はおのずから滅びさるということをわたしは知っている。(S・ヴェイユ「カイエ4」みすず書房)

おそらくこのあたりがヴェイユの(後期ヴェイユの)思想の核であって、門脇さんはこういうヴェイユの姿勢を「それは何物も求めぬ限りない受動の姿、いかなる命令をも待ち構え、命令のないことさえも覚悟している奴隷の姿である」と表現されています。なんだ、そんなの、みじめったらしい生き方ぢゃん、とか、きれいごとばっか並べてるだけぢゃん、とか、そういう反発は私自身も何度も何度も感じてきました。けれど実際にヴェイユの著作にあたってみるならば、それは本当に切迫した、緊張に満ちた、悲痛なものとして、読む者の胸に迫ってくるのは事実なのです。

ヴェイユを語ることは本当に難しく、論じても、解説しても、虚しいばかりです。あの松岡正剛さんでさえ、千夜千冊で「あーあ、今度もヴェイユをちゃんと説明できなかった。」と匙を投げてらっしゃいます。それでも、あえて、この小品を世に出した、門脇さんの30年来の、ヴェイユへの強い思いに敬服するばかりです。
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2004年12月09日

ニーチェ/ジル・ドゥルーズ

ニーチェ
ニーチェ/ちくま学芸文庫

これはその昔中央大学の生協で購入した本です、ブックカバーがそう物語っています。
懐かしいです。
そのまんま読まずに放り出すこと・・・6年? やっと読了はしましたが「学術」のカテゴリに分類していいのかどうか悩みます、というのが正直な感想でしょうか。

「ニーチェ物語」ですね。
ぱらぱらと飛ばし読みするにはいいかもしれません、訳文も分かりやすいし、「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」なんて便利(?)なものも収録されています。
半分以上は「ニーチェ選集」で、哲学者とは何か、哲人ディオニュソス、諸々の力と<力>への意志、などといったテーマに基づいてニーチェの本文を抜粋し羅列してあります。
だから実際ニーチェを読んだことのある人にはまったく不要、なのかもしれませんが編集によって随分と雰囲気は違ってくるものです。

ドゥルーズの提示する世界観はいつも生成に満ちています。本書でも、永遠回帰の神話までが「選択的」なものとして解説されていますが、ホントウにニーチェはそんなに幸福な哲学を説いたのかな、と首をかしげた部分もちらほら。

ドゥルーズがわが身を投げたのは、新たな生成に向けて、自己自身に「然り」というためであった、と考えるなら、やはりそれは同じものが帰ってくるからこそ身を投げたのではないか、と思ったりもするからです。
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2004年12月08日

僕の叔父さん 網野善彦/中沢新一

僕の叔父さん 網野善彦
僕の叔父さん 網野善彦/集英社新書

「悪党的思考」「異形の王権」と非常に深いところでコミットしていることだけは知っていましたが、なにぶん日本史に疎いので網野さんの著作まではなかなか手が出せないでいたのでした。
今年の2月27日に網野さんがお亡くなりになり、その後「すばる」に連載された追悼文を大幅に改訂、加筆したものです。

中沢新一さんが日本のアカデミズム界におけるサラブレッドであることは承知ですが、この短期間にこれだけの文章を(少し荒削りなところもありますが)お書きになってしまわれる才能というのはやはり稀有なものだと感じます。

中沢新一さんの著作を拝見していると、「地上にもう一つの場所を」、常に常に「此処ではない、これではない何か」を時に軽やかに、時に深遠に追求してらっしゃるのだな、と痛感します。そうしてそれが単なる机上の空論ではなく、うまく言葉では言い表せないのですが深く深く掘り下げていったならばきっと見つけられる新しいあり方なのではないか、という希望につながっていくところが、私が長く長く、本当に長く中沢新一さんの著作を追い続けている理由でもあります。

私にとっての「アジール」。

カテゴリは一応「学術」にしましたが、網野さんへの中沢新一さんの追慕の念がどのページからも滲み出してくる、ちょっぴり物悲しい評伝であり、また非常に分かりやすい形で提示された日本の戦後思想史へのオマージュでもあるような、ご本人のお言葉を拝借すると「極私的網野論」。
posted by nadja. at 01:59| 学術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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