2005年03月26日

シモーヌ・ヴェイユの「善」について/門脇洋子

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シモーヌ・ヴェイユの「善」について/新風舎

間に合ったーっ!!

・・・って今月ホントにもう更新できないんじゃないかななんて思っていたのですよ、今の時期ヴェイユは毎日ちょろちょろと拾い読みを繰り返しているのですが検索かけててひっかかってきた本書がとても気になっていたもので。

「シモーヌ・ヴェイユについて何か書かなければ・・・と思いつめていた二十代から・・・」と著者の門脇さんはあとがきに書いてらっしゃいます、私もヴェイユについて何か書かなくては(それは多分「善」というテーマではなく「不幸」というテーマになるでしょうけれど、もしくは「狂気」か)と二十代の頃から思い続けて三十路を迎えたひとりでありまして、やはりヴェイユという人は強烈な磁力を放つ、極端で、過剰で、深い人なのだなあと改めて認識しました。

本書は「超自然的認識」(勁草書房)からの引用を各所にちりばめながら(1)善とは何か(2)待ち望むこと(3)善との出会い−十字架について、という構成で論じられる小さなヴェイユ論です。きれいな言葉に満ちています、正しく強い思索に満ちています。

わたしがこの地上のすべての事物を偽りの善であるとして、こうしたものから自分の願望をそらすならば、自分は真理のうちにあるという絶対的で無条件な確信がわたしにはある。それらは善ではない、虚偽に与するのでないかぎりこの地上のなにひとつ善とはみなされえない、この地上のすべての目的はおのずから滅びさるということをわたしは知っている。(S・ヴェイユ「カイエ4」みすず書房)

おそらくこのあたりがヴェイユの(後期ヴェイユの)思想の核であって、門脇さんはこういうヴェイユの姿勢を「それは何物も求めぬ限りない受動の姿、いかなる命令をも待ち構え、命令のないことさえも覚悟している奴隷の姿である」と表現されています。なんだ、そんなの、みじめったらしい生き方ぢゃん、とか、きれいごとばっか並べてるだけぢゃん、とか、そういう反発は私自身も何度も何度も感じてきました。けれど実際にヴェイユの著作にあたってみるならば、それは本当に切迫した、緊張に満ちた、悲痛なものとして、読む者の胸に迫ってくるのは事実なのです。

ヴェイユを語ることは本当に難しく、論じても、解説しても、虚しいばかりです。あの松岡正剛さんでさえ、千夜千冊で「あーあ、今度もヴェイユをちゃんと説明できなかった。」と匙を投げてらっしゃいます。それでも、あえて、この小品を世に出した、門脇さんの30年来の、ヴェイユへの強い思いに敬服するばかりです。


posted by nadja. at 16:11| 学術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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