2008年12月28日

冬籠もり

ただいま冬籠もり中です。
多和田葉子を片っ端から読んでいます。

人の言葉に埋もれて自分の言葉を喪失するのはとても幸せなことです。浄化されているような気がします。いつまで籠もっているつもりなのかは分かりませんが、もそもそ起きてきましたらまたよろしくお願いします。

nadja.
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2008年12月23日

闇の子供たち

闇の子供たち (幻冬舎文庫)
梁 石日
4344405145

フィクションだそうで。たまたま人から借りたのだけれど幻冬舎文庫という段階で読む気が失せ、三分の一くらいで吐き気がした。あとは斜め読み。露悪趣味、或いは偽悪趣味のオンパレードで、露骨な性描写とストーリーを追うだけの平凡な文体にうんざりする。いわゆる「神の視点」からの三人称小説であるはずなのにそこらじゅうに散見する過剰な主観的表現が鼻について仕方ない。客観的に外側から書かれているはずのものが突然内側から痛みや苦痛を訴えかけてくる、というのが、もしも作為的なものだとしたら、趣味が悪いとしかいいようがない。

冷蔵庫とテレビのために娘を売り飛ばす親。恥知らずな欲望を「後進国」相手に垂れ流す「先進国」の変態たち。腐敗した政府、官僚、警察組織、金に群がるマフィアたち(彼らもまた「元闇の子供たち」であり、そこには断ち切ることのできない再生産の仕組みができあがっている)。たとえフィクションであっても現実は遠からず近からずというところにあるのだろうし、一読することに意味がないとは思わないけれど、この悲惨な子供たちを生み出したのはあなたが享受している豊かな物質社会なのですよ、あなたのその恵まれた生活はこのかわいそうな子供たちの犠牲の上になりたっている、非人間的なものなのですよ、ということくらい、実感として分かっている。グロテスクな想像力と独善的な正義感を押しつけられる、非常にいやな本である。たぶん映画はDVDになっても観ない。
posted by nadja. at 20:13| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月17日

WALL・E/ウォーリー

を観てきた、タダ券もらったので(ここ強調)。「名前は、ウォーリー、700年間、ひとりぼっち」のかわいそげな映画で、会社の年下女子などはそんなん設定だけでかわいそうだし観に行ったら泣くにきまってるから行きたくない、と言っていた、けど、「はい、ここ泣くとこね」って言われてるのがまるわかりのディズニー映画なので泣いたりしないの。

ゴミの山になった地球にはもう住めなくて、宇宙船で暮らしてる元地球人たちはぶくぶくに太り、エアソファみたいなのに寝そべって、目の前のモニターを操作して食べたり飲んだり。たぶん何百年か後の世界はそんなふうになっているんだろう。うまいこと風刺もこめつつエコ推奨の優等生映画。ウォーリーもかわいいし、相手役の白いロボット、イヴはもっとかわいい。無性に手をつなぎたくなる映画なので、手をつなぎたい人がいる人はご一緒にどうぞ。
posted by nadja. at 16:28| film | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月13日

不条理も反抗も

せっかくカミュまでいったから、ついでに『シーシュポスの神話』『反抗的人間』を読み返してやろうと思ったんだけど、読めない。読めないの。まずもって「不条理」という言葉じたいがものすごくなじみのない言葉のように感じられて、最初の1ページ目から自分が拒絶されているように思える。ありえない。恥ずかしいことだけれど、中身をぱらぱらめくればそこにはたくさんの傍線が引いてある。「不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ」、ものすごく的確な傍線であることは分かる、カミュが『シーシュポス』で不条理と呼ぶものはたしかにこの「表象不可能性」であるのだ、けれども「明晰を求める死物狂いの願望」、もうここが無理だ、わたしは不明瞭な地点でまどろむことに慣れていすぎる。

『反抗的人間』にいたってはさらにひどい。「自己の裡に、保存すべき永遠的なものがないとしたら、なぜ反抗するのだろうか?」保存すべき永遠的なもの? そんなものどこにもない。だから「反抗」という概念じたいが初手から無効化されている。それでも、そんなばかな、とページを繰ろうとしても、文字が意味を結ばない。

おまえには、もう、読む資格がないのだよ、と突き放されている気がして、とても悲しい今日である。
posted by nadja. at 21:11| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月06日

正義の人びと

カミュ全集〈5〉戒厳令・正義の人びと (1973年)

から『正義の人びと』を。ロープシン『蒼ざめた馬』と同じシチュエーションをもとにしたカミュの戯曲。革命とテロルをめぐる白熱した科白が続く。切迫したやりとりの息苦しさは本家以上か。

「死こそ、涙と血の世界に対する僕の最高の抗議になるだろう」
「もし僕が暴力に対する人間の抗議の高さに達しているならば、死が僕の行為を思想の純粋さによって飾ってくれるように」

人びとがとうに忘れ去ってしまった情熱。時代がぬるいからか、人心がさむいからか。とても古めかしいけれど、わたしはこの心優しきテロリストたちの葛藤を、とても愛おしいと思う。
posted by nadja. at 16:40| 小説*海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月04日

月と六ペンス

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)
サマセット・モーム 土屋 政雄
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もう一冊光文社の古典新訳文庫から。このシリーズ、装画がどことなく可愛らしくて素敵。そろえたくなってしまう(こらこら)。『月と六ペンス』も『人間の絆』もふるーいふるーい新潮文庫版が家にあるけど、実は初モーム。装丁が変わっただけで読みたくなるのだから不思議なものだ。

ストーリーテラーとしての巧さはいやというほど味わうことができた。これぞ、「ザ・小説」という感じ。ゴーギャンがモデルだというストリックランド、証券株式の世界に17年雌伏し、ある日突然妻子を捨てて絵を描くためにパリへ。慈悲の塊のようなストルーブ、その妻を襲う悲劇、ストリックランドの非情なふるまいと傲慢、そしてマルセイユへ、タヒチへと展開よく話はすすむ。だが話がすすめばすすむほど、「おはなし」でしかなくなっていく。東野圭吾を読んでいるときに感じるのと同じような上滑り感がする。ストリックランドが生涯を賭して描きあげた壁一面の絵を表現するところなど、もう贅言のオンパレードで溜息が出るが、どうにもピンとこないのだ。そこかしこにちりばめられている皮肉や人間観察の鋭さ(モームはスパイだったらしい!)は面白く読めたが。

1919年の作品である。解説でも触れられているが、特に後半部分は強烈なオリエンタリズムに貫かれていて読んでいてちょっと厳しい。おまけに女をなんだと思ってんのよ! と言いたいところも多々ある。が、たとえば、天才とは批評家が作り出すものである、という皮肉を最後のページに読みとるならば、かなりひねくれた自己言及的小説としても通用するかもしれないし、正直、このストリックランドという男の生きざまは、魅力的だ。

まったく余談だけれど、読んでいる間、「長身、痩せているのにがっちり、もじゃもじゃのひげ、官能的で野性的」なストリックランドのような俳優が出てくる映画を観たことがあるような気がしていろいろ考えていたのだが、一向に思い浮かばないのでとりあえずあきらめて、DIRTY THREEの『Ocean Songs』をBGMに読み進んでいたら、ヴァイオリンが泣くように軋んだところで「あ、なんだ、ウォーレン・エリスその人じゃないか」、と気づいて膝を打った。大きな背中を丸めて小さなヴァイオリンをかき鳴らしている姿はまさしく「天才」という感じだったもんなぁ。
posted by nadja. at 19:59| 小説*海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月03日

幼年期の終わり

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)
アーサー・C・クラーク 池田 真紀子
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誤訳問題でいろいろ取り沙汰されている光文社古典新訳文庫から。「いま、息をしている言葉で」、という売り文句通り、すらすら読める心地よさ。とても、良いことだと思う。読まないよりも、ずっと。

で『幼年期の終わり』。突如大都市の上空に宇宙艦隊が出現する。オーヴァーロードと呼ばれる異星人(その姿は第2部で明らかにされる。ちょっと陳腐で笑っちゃったけど、3部を読むと、おお、と唸った)は国家を解体し、人類に平和をもたらす。もちろんそれは最終目的ではない。第3部で明らかにされる彼らの目的は、

人類補完計画だった…。

(実際『幼年期の終わり』とエヴァンゲリオン、でぐーぐるさんに聞いてみると1万件近くヒットする)

「人類はもはや孤独ではない」。この一文がこんなに遠くまで物語を運んでいくとは。善悪の彼岸をこえるアーサー・C・クラークの幻視に脱帽。
posted by nadja. at 12:02| SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

ひとさらい

ひとさらい (1979年)
ジュール・シュペルヴィエル 澁澤 龍彦

風邪を引きました。今年の風邪は鼻水と喉に来るようです。皆様もお気を付けください。風邪ひいたー、会社休み、わーい、読書三昧だ(笑)、などと思ってはいけませんよ。熱がさがりません。

さて心優しきフィレモン・ビガ大佐は奥方との間に子どもができないがために街角で子どもを拾ってくる。冒頭、女中とデパートに来ていたアントワンヌがさらわれるところで物語ははじまる。ビガ大佐は徹頭徹尾善人である。あしながおじさんのような人。けれどもマルセルという女の子をもらいうけたところからビガ大佐の理念はガタガタと崩れ始める。マルセルは美しく、媚態を示しさえする女の子で…

このへんのビガ大佐の煩悶は一読にあたいするのだが、第一部の夢見るようなおとぎばなしの世界がしだいしだいに壊れていくのをたどるのはちょっと心苦しい。そうして澁澤龍彦が、かくも子どもを愛するビガ大佐の物語を訳出していることにも、いいようのない矛盾を感じるのだった。
posted by nadja. at 00:12| 小説*海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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