2008年04月30日

ドライヤー2本

『裁かるるジャンヌ』と『怒りの日』を京都みなみ会館で。ドライヤーの作品は今まで一度も観る機会がなかったのでようやく、という感じ。『裁かるるジャンヌ』は完全に無音のサイレント映画で、静謐さに息を呑む。ジャンヌの目から音もなく零れ落ちる涙が素晴らしい。ミラ・ジョヴォヴィッチの狂信的なジャンヌとはえらい違いである。皮膚がわなわなと震えるさまが非常に生々しく、映し出す、という行為の原型を見た気がした。対して『怒りの日』は悲鳴、笑い、嵐の音が印象的。拷問にかけられ燃えさかる火に倒される老女の叫びが耳に残る。アンヌの悪魔的な目の力がすごい。『吸血鬼』と『奇跡』も観たいのだけれど、体力的にちょっと無理。詳細コチラ
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2008年04月25日

女性は斯様にも抑圧されてきたのだ!

女の一生 (新潮文庫)
モーパッサン
4102014012

めちゃめちゃ面白い。ずっぱまりで一気読み。本棚で10年熟成させただけのことはある(笑)。しかも誰かからもらった本で経年ヤケと紙の劣化が激しくまさに「古典」にふさわしい年月の重みが。んなこたどうでもいいけど、とにかく見事に男爵令嬢が坂道を転がり落ちていく。男前の子爵の旦那は結婚と同時に吝嗇の気が見え始め、そのうち女中が出産、実は結婚前から旦那と姦通していてやっぱり旦那が孕ませた子、ああ裏切られたわ私、と嘆いてみても司祭までもがまあ仕方ないじゃないですか奥さん、となだめる始末、失意とあきらめのなかで生まれた子どもを溺愛し、旦那はまた浮気、不倫相手の旦那にバレて復讐されて、今度は甘やかされて育った息子が商売女に誑かされて家出、金をせびってついに破産、どうでしょうこのてんこもり。後半部分につれて描写がどんどん荒くなっていくのもご愛敬、女性は斯様にも抑圧されてきたのだ!なんて鼻息荒く憤る必要はまったくない。19世紀前半の貴族社会に生きた女の一生は、21世紀の現代、十分エンタテイメントとして読める(そんなことじゃダメかしら)。
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2008年04月23日

個人的な解釈

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)
大江 健三郎
4061837540

『同時代ゲーム』では少々躓いたのだがこれはウィリアム・ブレイクの詩句になぞらえる形で書かれたイーヨー譚。暴力的に要約するとイーヨーも大人になったからこれからはイーヨーじゃなくて光さん、って呼ばないとね、というそれだけのことなのに巨匠はさすがに荘厳な装飾をやってのける。

けれどもこの荘厳な装飾はすべて大江氏の「個人的な体験」ではないのか。すべて大江氏とイーヨー(=光氏)のために書かれた定義集であって、この文章は我々読者の存在をはじめから疎外しているのではないか。そういう苛立ち(或いは嫉妬?)が読み進むにつれて蓄積されていく。その苛立ち/嫉妬は「鎖につながれたる魂をして」で非常に卑怯な取引を迫る革命家の行動に直結していく。ああ、大江さん、お願いだからイーヨーのことばかり書くのはやめてください、どうか、貴方のその知性と、その文体で、この世界のことを、この世界の絶望を、この世界の闇と挫折を、この世界の堕落と腐敗を、そしてできるならばこの世界の再生と復活を、貴方のその過敏な想像力でもって、描き出してはくれますまいか…。

『洪水はわが魂に及び』のジン(=イーヨー)がそうであったように、この作品でもイーヨーは神々しいまでに無垢な、愛らしい存在として登場する。「パパ、よく眠れませんか? 僕がいなくなっても、眠れるかな? 元気を出して眠っていただきます!」といったように、太字で書かれる科白はどれも、ユーモアに満ちていて笑いを誘う。だがそのイーヨーに対して、「ティルザに」の一節をもってくる残酷さ(「地獄の格言」からのあの一節だけで十分じゃないか!)に頭を殴られたような衝撃を受ける。残酷さ、というのは少し違うのかもしれない、露悪趣味、のほうが近いかもしれない。ここまでのことを読んでしまっていいのだろうかという戸惑いを、どうしても感じてしまう。

ブレイクの「ある一解釈」として非常に水準の高いものであることは間違いがない。だが、それは大江氏の、イーヨーにあてた、イーヨーのためだけの、個人的な解釈であって、読んでいて若干、さみしい。

ちなみに鶴見俊輔の解説がひどい。講談社文芸文庫版をお勧めする。
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2008年04月22日

悔しいけれど(?)

ミミズクと夜の王 (電撃文庫 こ 10-1)
紅玉 いづき
4840237158

会社の年下女子に借りた。いわゆるライトノヴェル。もしかしてすごくアレかなと思って読み始め、「ねぇえー」とか「あたしぃ、村で、奴隷しててー」とかいった表記にはこの際目をつぶるとして、なかなか良かった。

純文学の人が読んだらどう思うのか教えてー、と職場の彼女は言ったので、純文学、という言葉に若干の恥ずかしさも感じつつ(その言葉はひょっとしていまや「オタク」よりも恥ずかしい言葉なんじゃないか?)、うん、古くさい小説よりずっとずっと訴えてくるものがあると思うよ、と答えた。それが正直な感想。並行して読んでいたのが大江健三郎だったので余計にそう感じたのかもしれない…。

あとがきで著者が書いていたこと。

「私安い話を書きたいの。歴史になんて絶対残りたくない。使い捨てでいい。通過点でいいんだよ。大人になれば忘れられてしまうお話でかまわない。ただ、ただね。その一瞬だけ。心を動かすものが。光、みたいなものが。例えば本を読んだこともない誰か、本なんてつまんない難しいって思ってる、子供の、世界が開けるみたいにして。」

(このブツギレの文章に生理的な反発を覚えつつも)ああ、そうだよな、と、確かに、例えば並行して読んでいる大江の、文字だらけの、改行の少ない、厳めしく脅迫的な頁よりも、さらさらと頁を繰れるこういう本のほうが、今の過剰に忙しい時代には求められているんだろう(巨匠よごめんなさい)。メルヘン仕立てのたしかに安い話だが、村の奴隷として虐待の限りを尽くされた少女が魔物の王と王国の騎士の庇護のもとに人間性を回復していく過程は悔しいけれど(?)感動的ですらあったのだった。
posted by nadja. at 23:48| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

さらさらと

妊娠カレンダー (文春文庫)
小川 洋子
4167557010

運良く古書店で入手。前から読んでみたかった。

さらさらとした筆致でさらさらとした悪意をさらさら描いた表題作。まるで体温を感じさせない淡泊さがすごい。妊娠、という語が連想させる強い感情とはまるで無縁。そしてさらさらとした筆致がそこはかとない恐怖をあおる「ドミトリイ」。これは怖い。サスペンス仕立て。それからさらさらとした筆致でさらさらと日常を描いた「夕暮れの給食室と雨のプール」。何も起こらず何も提示されず何も表現していないのにもかかわらず確実に物語は進みうすぼんやりした読後感が残る。

禁欲的で、質素で、控え目で、清潔で、とても整った文章。とても憧れる。
posted by nadja. at 19:05| Comment(0) | 小説*日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

LONDON calling!

ハープ(DVD付き)
ミューズ
B001277MBK

15万人!

どんだけ人おるねん! というウェンブリーでのMUSEライブ。ものすごい人、人、人! がひとつの音に溶けているという奇跡。こんなライブ一生のうち一回でいいから行ってみたい。でも今んとここんなことができそうなアーティストはMUSE(とMETALLICA)くらいしか思いつかない。お化けにしかできないよ。

こんなお化けになっちゃってさて次はいったいどこへ行くんだろうMUSE。これの上、といったらもう次は宇宙ライブくらいしか残ってないんじゃなかろうか。人類初の宇宙ライブ、宇宙ステーションから生放送、とかどうよマシュー。

冗談は抜きにしてロンドンが心底うらやましい。全ロックファン必携、の帯たたきは誇張でない。みなさん買ってください。DVDつきでこの価格はホントにお値打ち。
posted by nadja. at 21:52| Comment(0) | music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月17日

なにがキャンセルだ!

Third
Portishead
B0016HNOXQ

アマゾンからメール。「担当部署での調査の結果、誠に申し訳ございませんが、ご注文時の商品の品番(ISBN/ASIN)に誤りがあったことが判明いたしました。」「お客様のご注文商品に関しましては、誠に勝手ながら当サイトにてキャンセルさせていただきました。」

な、なぬー! なにがキャンセルだこのやろー!

「B0014C2BL4」、は間違いで、「B0016HNOXQ」、が正しいんだってさ、予約しなおし! 

※一瞬、「発売が中止になりました」じゃないだろうかという不安がよぎったけど良かった。
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2008年04月12日

とおくはなれてそばにいて

とおくはなれてそばにいて―村上龍恋愛短編選集
村上 龍
4584180334

くどいようだが暴力的な村上龍は好きで変態セックスとグルメの村上龍が嫌いだ。ネットでいろいろ見ていたときにとても素敵な一節を見つけた、それは『スザンヌ』からの引用であるらしい、だから買った。「もうすぐちゃんと終りが来る。優しい優しい終りが来る」、というなんでもない一節なのだけれど、部屋と同化し朽ちながら待つ女の言葉として優雅さすら漂っており、非常に好感が持てた。

けれども恋愛短編選集である本作には私が以前文庫本を放り投げた『トパーズ』から二篇選ばれており、なおかつもっとも最低すぎて鮮明に印象に残っている『卵』が収録されていた。もう二度と読みたくないと思っていたが怖いものみたさで読み返すとやっぱり気分が悪かった、ああいう物語を男に書いてほしくないのだ。

あとは概して年収の高い中年男と容姿のいい女の豪勢なセックスとグルメの話である。そのなかでこれだけは良かった一節。「それをやってれば、どこにも行かなくて済むっていうものを見つけなさい。それができなかったら、あんたは結局、行きたくもないところへ行かなくてはいけない羽目になるわけよ」(『ワイルド・エンジェル』)。私はどこへも行きたくない。だからどこにも行かなくて済むような言い訳が、完璧な言い訳がほしい。

あともうひとつ、このタイトルはいいね。
posted by nadja. at 19:23| Comment(0) | 小説*日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月11日

そんなもののために

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』をナナゲイで。とにかくひどい映画であった。3時間10分の上映時間のうち約1時間は凄惨なリンチの現場。なにもあそこまで真正面から「暴力」を描かなくてもよさそうなものだが。「自分で自分の顔を打て」といわれた遠山美枝子(=坂井真紀)のシーンにいたってはまともな心拍数を保っていることができず、椅子の上で三角座りをして自分の膝を抱いた。若松監督の撮り方にもよるのだろうが、革命、総括、党、といった言葉はどれもリアリティのない幼稚な言葉として響き、学術的な重みも一切もっていず、観ている側には「そんなもののために」「なぜそんなもののために」の思いが消えない。集団の力学といった観点から連合赤軍問題を云々しても連合赤軍=オウムの図式が想起されるだけだが、とにかくあの撮り方では、なぜあの場に「いいかげんにしろ」の一言を発する誰かがいないのか、なぜ女が自分で自分の顔をつぶしていくのを正視していることができるのか、といったところへしか、意識がいかない。おまけに重信房子はあれではまるでアイドルだ。

私が通った大学は紛争の激しかった大学で、90年代になってもまだ組織部や自治会が細々と活動を続けていて「・・粉砕」や「・・決起」といった文字のおどる看板が正面に掲げられていたけれど、実際に見た「デモ行進」はたった4人が手を繋ぎながら「あんぽ、ふんさい」と奇妙に明るい声をあげながら構内を練り歩いているようなお粗末な代物だった。冒頭のレジュメ部分などからすると隔世の感がある。たかだが30年から40年の昔にこんな時代があったことはもちろん知っておく必要があるし、またそれによってさまざまな反省を促されることも有益なことではあろうが、それにしてもしんどい、重い作品であった。この身体を直撃してくるような圧迫感こそが、この時代のしんどさであり重さであったのだと言われれば、受忍するしかないけれど。
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2008年04月08日

決してベトナム戦記ではない

輝ける闇 (新潮文庫)
開高 健
410112809X

絶対的な経験を前にしてただ通りすがりに読んだだけの者が無駄な言葉を付け足す必要は一切ない。そうした沈黙を強いるような経験を求めることのあざとさ或いは卑しさについての痛々しい自覚までもがもうすでに書きこまれている。なぜここまでして戦うのだろう。この人が戦っているものの正体はなんだろう。ものを書くということは、ここまで残酷に人を追い詰め得るのか。
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2008年04月01日

絶望の国のファンタジー

希望の国のエクソダス (文春文庫)
村上 龍
4167190052

なんとなく暴力が足りないものだから。『コインロッカー・ベイビーズ』と『愛と幻想のファシズム』のために私にとって村上龍という作家はつねに暴力的なイメージとともにある。ほかの作品は知らない、爛熟したセックスも、肝臓がとろけそうな饗宴も、べつにどうでもいい。だから『コックサッカーブルース』で吐きそうになって以降読みたいとも思ってなかったのだけど、もしかしたらね、という淡い希望があって、読んでみたらこれは経済革命譚であった。

たぶんこの人には明快なヴィジョンがあるんだろう。この国を変えるための。だが悲しいかなこの人は小説家であって、この小説に描かれているような事態はファンタジーでしかない。こんな中学生がどこにいる?氏が過剰な期待を寄せていたと思われる萌芽期のネットワークは成熟を迎えるどころか非常にレベルの低いところで惰性化し、出口を失って、生産性もなければ流通性もないひまつぶしツールと化している。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」、という言葉は真実として響くとしても、それだけだ。この小説が描き出すファンタジーの中にも希望はなく、そうしてエクソダスもない。ただ、しばらく読まなかった間にずいぶん村上龍もかわったんだな、と思えたことは収穫だった。
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