2008年02月25日

通じ合えない

バベル スタンダードエディション
ブラッド・ピッド.ケイト・ブランシェット.役所広司.菊地凛子.
B000UDNQZS

昨日WOWOWでやってたのでようやく観た。冒頭のモロッコの光景がなんとも。バベルの塔が崩壊したのちの、コミュニケーションを喪失した不毛の大地とでも?

モロッコ、アメリカ、メキシコ、新宿と無関係に思える糸が最後には全部絡み合う見事な構成。ケイト・ブランシェットも菊地凛子もとても良い。全篇にわたって「通じ合えなさ」が蔓延している陰鬱な映像のなか、堰を切ったように絞り出される菊地凛子の嗚咽の声は素晴らしかった。

冒頭のモロッコの砂漠と対比をなす、ラストシーンの現代のバベルの塔とでもいうべき新宿の高層ビル群。「通じ合えなさ」に対してなんの解決も示されない冷たさにほっとする。コンクリートのバベルの塔にともされる、「通じている」という幻想の灯り。あの寒々とした光景が、我々の時代の稚拙な、それでも精一杯のコミュニケーションなのだ。
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2008年02月24日

RPGミステリ

白夜行 (集英社文庫)
東野 圭吾
4087474399

『ガリレオ』では非常にお世話になった(笑)し、実家にあったから読んでみた。これってドラマ化すればうけるだろうな、と思ってたらちゃっかりされてた。全然知らなかった。これだからテレビ見ない人間は…。

かなり分厚いけれどもとても読みやすくできている。ミステリとしては「犯人」が話の筋のなかでかなりはっきり暗示されるので謎解きとしての面白さは皆無。ただ、昭和49年からの時代描写が懐かしく、また大阪で生まれ育ったものとしては登場する地名にうんうん、とうなづくのも楽しかった。展開が派手で、あえていえば陳腐で、先の筋立てもだいたい分かってしまうのについついページを繰ってしまうのはRPGと同じこと、完全に思考停止したうえで、気持ち良く物語の流れにのせてもらえば一気にラスト。ときにはこういう楽ちんな読書体験も良い。こないだ

容疑者Xの献身
東野 圭吾
4163238603

も読んだ。こちらは謎は謎として残されたまま物語は進む。途中でだいたいのところは読めてしまうのだけど、それでも一応「ミステリ仕立て」。自分ひとりが悪者になろうとすることも、あまりに人を愛しすぎることも罪なのであって、絶対的な献身に人は耐えられない。シモーヌ・ヴェイユの哲学が罪深い理由もおそらくそのへんににある。そんなことをぼんやり考えたこちらのラストはなかなか。映画化楽しみにしてます(笑)。
posted by nadja. at 02:51| ミステリ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月21日

マチウ書試論/転向論

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)
吉本 隆明
4061961012

下で「転向」なんて使い慣れない言葉を使ったものだから読んでみる。たぶん10年ぶりくらい。そして何も覚えていないことに気づく。実は読んでなかったんじゃないか、と思うほど。「もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」、こんな言葉を一度読んで忘れてしまうことなんてあるんだろうか。エリアンの手記と詩の瑞々しい青さに10年前の私は酔わなかったのだろうか。

それにしても「マチウ書試論」である。こうまでラディカルなマタイ伝の解釈はほかにない。宗教性を切り刻み、神秘性を剥ぎ取って、原始キリスト教の底意地の悪さをえぐってみせるやり方はときに爆笑を誘う。私はキリスト教に対して吉本氏と同じスタンスに立ってはいないが、この力強さは敬服に値する。「関係の絶対性」という言葉の強さに久しぶりに身体が引き締まる。

そして「芥川竜之介の死」。芥川、という名が想起させる一切の幻想を排した冷徹な論考。ボオドレエルの百行は人生の一こまにも若かない、の一行に冷や水を浴びせられる。

「日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである」、という下りが正鵠を得ているとは正直あまり思わないのだが、「転向」を狭義のマルクス主義的文脈から引きはがし、日本思想史ぜんたいの節操のなさに向ける視野の広さに、うなった。

ここに書かれていることは、まるで遠い国の遠い昔の出来事のようであるけれど、半世紀前のこの国では、斯様に熱く重い言葉が日常的に吹き荒れていたことを思う。今は軽い時代だ。そして薄い時代だ。
posted by nadja. at 06:09| 学術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月19日

Bette Midlerは本当にすごい。



唐突だけれどすごいとしかいいようがない。ちびりそうになった。映像からして映画『The Rose』からはずいぶん経ったころのものだと思う(それはコチラへ)。『The Rose』という映画はそのストーリーの陳腐さ、やりきれなさはさておくとして、ここまでむきだしの、魂と声とが直結したような、「歌うことそのもの」であるような、神学的レベルの歌を歌ったBette Midlerが絶対的にすごい。そうしてそれから年月を経ても、衰えないどころかより切迫した歌を歌うBette Midlerは本当にすごい。決して決して、きれいなバラードばっかり歌ってるおばさんじゃないのだ。



ちょっと画像は粗いけど、こっちもすごい…。寝転がってるし…。

The Rose: The Original Soundtrack Recording
BETTE MIDLER
B000002J5A

一家に一枚。是非。
posted by nadja. at 21:25| etc | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

母べえ。

うちの母べえが非常に観たがっていたので連れていく。観たがってた割には「戦争中にあんなきれいなおかんがおるわけがない、現実味がない」とかなんとかこぼしてたけど。

正確には戦争中ではなく、第二次世界大戦前夜の昭和15年が主な舞台。ドイツ文学者の夫が治安維持法で検挙されるところから物語がはじまる。夫はそのまま思想犯として拘置所へ送られ、残された母とふたりの娘が夫の教え子と心を通わせていくさまを描く、っていっても吉永小百合だけに不倫ものではない(笑)。あくまで清く美しい母べえである。

思想犯の転向問題を扱うでもなく、残された家族の苦悩を扱うでもなく、大政翼賛的状況に否を唱えるわけでもなく、時代の暗さを描くでもなく、戦時を生き抜いた母と娘の絆を描くでもなく、要するにフォーカスのぼやけたとりとめのない映画であった(それは戦争を扱った映画における最近の流行でもあるのだろう)。「がめつい」を絵にかいたような奈良のおっちゃん役の鶴瓶がいちばん光ってた。作中、どうしてあんな下品なおっちゃんをとっとと帰らせないの、と娘に詰め寄られた母べえが「私あのおっちゃんを前にしてると楽になれるの」と言うシーンがあったが、国じゅうが戦争に向かって突進していく息苦しさのなか、指にはめた金の指輪を「なにがあっても供出したらあかんで」と母子に託すような個人主義には、たしかに心がふっと軽くなった。

あとはやっぱり吉永小百合が文句なしにきれいだったことかなー。エンドロールが流れてるときに朗読されていた言葉はとても良かった。
posted by nadja. at 18:36| film | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

ARCADE FIRE@なんばHatch

にぃおんばぁ、ではじまる。たしかに10人編成になってる。バイオリン2人、コントラバス(チェロですか?)1人、後ろにはホーンの人2人、レジーナさんは名前の良く分からない楽器。弦楽器なのだろうけど、レバーみたいなのをくるくる回して音を出していた。あれは果たしてなんだろう。ステージ上はとにかく賑やか。あとなぜか拡声器。サマソニであれだけ大暴れした彼らのことだから何をやらかしてくれるんだろう、という期待がいやがおうにも高まっていく静かな出だし。にぃおんばぁ、にぃおんばぁ(この表記めちゃめちゃ気に入ってる・笑)、とやわらかく揺れる。気持ちいい。

あとはだいたい、新旧取り混ぜての構成で、新しいアルバムからはBlack Mirrorなどもなかなかノリよく楽しい。Haitiではレジーナのパントマイムダンスも。短いスカートがひらひらしてドキドキする(笑)。思うにこの人、とことんマルチプレーヤで、曲によってはドラムも叩くので後ろに引っ込んでしまうのだけど、ずっと前にいてくれたほうが華があって良い。会場は3割、といったら多すぎかな、とにかく外人さんがいっぱい。私の後ろでは4人組の外人さんが奇声をはりあげ、前では2人組の女の子が手を握り合ってダンスしてる。ものすごく自由な雰囲気。

でも「うわぁきたぁ」、と思うのはやっぱり『Funeral』からの曲だった。なんでだろうね。『Neon Bible』もすごく良い作品だと思うのだけど、どうもHatchの高い天井があってない気がする。10人もいて、ステージはぎゅうぎゅうのはずなのに、ぽっこり空間があいてるような印象を受けた。拡声器も飛び道具というほどの活躍はしてなくて、ただサイレンの音鳴らしたりコーラスに使ったりしてただけだし。名前は分からないのだけど(だいたい曲によってめまぐるしく担当パートがかわるので誰が誰やらよくわからない!)、やたらシンバルを叩きまくってたおにぃさんやステージ向かって左側でこちょこちょ暴れてたおにぃさんたちは彼らのライブには欠かせない存在だな。これから観に行かれる方はバイオリンサイドではないほうで観るのをおすすめ。

本編ラストはPower OutからRebellionの流れ。おぉ、きたぁ、という感じ(笑)。待ってましたといわんばかりに大揺れする会場。Power Outには逆らえません。Rebellionのコーラスをみんなで歌いながらメンバーはいったん去っていき、アンコール待ち。で、ラストはやっぱり、やっぱりあれでしょのWake Up。こんなに気持ち良く声出させてもらえる曲ってほかにないなぁ。そしてみんな分かってる大合唱、ウィンのマイクが後ろ向いちゃうハプニングもあったけど、大団円でおしまいおしまい。あっという間の1時間40分、くらいかな。

人数が増えたわりには、前ほど混沌としたステージではなく、わりと整然と、おとなしく(笑)、淡々と演奏に徹していたのが意外だった。オトナになったのね〜。これからもあのノスタルジックな、オールドファッションの、仲良し兄弟然とした雰囲気を保って長く活動してもらいたいと思う。できればZEPPで観たかったな…。

フューネラル
アーケイド・ファイア
B0009S8H0I

たぶん何年経っても飽きない一枚。大好きだよ〜。
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2008年02月06日

いのちの食べかた

@第七藝術劇場。ロングラン上映中で今んとこ2月15日まで上映予定。詳細コチラ。不愉快かつ不快な映像が一切のナレーションを排して淡々と続く。機械に吸い上げられるひよこ、低い空から霧のようにまかれる農薬、機械に切り裂かれていく牛、ベルトコンベアで運ばれてくる豚の内臓を延々さばき続ける労働者。まるでゴミのようないのち、闇のなか、不夜城のように浮かび上がるビニールハウスで生産されるいのち、圧倒的に大量であることによってもはや「生命」と言うことのできないいのち、を、我々は日々、いただいている。自分のいのちをつなぐために。

1時間40分の不愉快かつ不快きわまりない陰気な映像は、食の真実を暴く、などといった大仰なコンセプトに基づくものではなく、スーパーマーケットで買い物をする我々が見ないふりをしている、気付かないふりをしている真実のただの提示である。今夜口に運ぶ牛肉は、豚肉は、鶏肉は、世界のどこかで誰かが、血まみれ臓腑まみれになりながらパック詰めのきれいな形に整えてくれている。牛の腹を裂き豚の皮を剥ぎ鶏の首を絞めることなど私には決してできない。なのに私は牛を食べ豚を食べ鶏を食べている。なんて非人間的な、だとか、悪しき工業化云々、といった批判はまったくあたらない。この仕組みがなければもはや我々は何を食することもできないのだから。

こんなにも、こんなにもいのちを粗末にして、自らの手を汚すこともなく、清潔で、安全で、簡便な暮らしを享受していることの罪深さを思う。けれどもう、どうしようもないことなのだ。だからせめて、スーパーマーケットの過剰に明るい照明が隠したがる真実を、知っておくくらいのことは、しなければならない。日曜洋画劇場とかでやればいいのに。

公式サイトはコチラ
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2008年02月05日

にぃおんばぁ

Neon Bible
Arcade Fire
B000MGUZM0

いよいよ明後日に迫ってまいりましたARCADE FIREの大阪公演。サマソニの興奮がふつふつと蘇ってきて、今か今かとWake Upの瞬間を待ちかまえているのだけれどメニエールが大暴れ中で実は会社を休んでいたり。『Funeral』は本当に大好きな一枚で、特にNeighborhood#1、#3、Wake Upの3曲でごはん一日いりませんというくらい大好きな曲であるのに左耳の奥の龍神はおとなしくなってくれない。

去年出たこちらは『Funeral』に比べるとバンドとしてより一層まとまった(それは落ち着いたともいう)感じで、まるで子守り歌みたいなやさしさが全篇にわたって満ちているあったかい一枚。ウィンがあのでっかいガタイをゆらして「にぃおんばぁ、にぃおんばぁ」と歌うところを想像すると自然と頬も緩む。明後日はいったいどんなどんちゃん騒ぎが待っているんだろ。メニエールには「にぃおんばぁ」でさくっと眠っていただいてステージ上の兄弟げんか(笑)を眺めながらいっぱい踊って飛び跳ねてきたいものです。楽しみ。
posted by nadja. at 17:16| music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月04日

レター教室とはいうけれど

三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)
三島 由紀夫
4480025774

大年増の英語教師氷ママ子さんとデザイナーの山トビ夫さん、若くて可愛いOL空ミツ子さんと演劇青年炎タケルくん、テレビおたくの丸トラ一くんの間で交わされる手紙だけで構成される抱腹絶倒のドタバタ喜劇。三島ってすごいね、こんなことも書けるんだ、という。

極限までデフォルメされた各登場人物のこれまた型にはまった手紙のいちいちが面白い。これを書いていたとき三島はいったいどんな顔をしていたんだろう。ばからしいぜ、とにやにやしながら、そして最後の最後にはきちんと毒を盛ることも忘れず。

「世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かって邁進しており、他人に関心を持つのはよほど例外的だ、とわかったときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力がそなわり、人の心をゆすぶる手紙が書けるようになるのです」。

手紙から電話の時代になって電話からメールの時代になって、そしてメールからブログの時代になって。あなたがどこで何をして誰に会って何を見て聞いて読んで何を食べようが、画面の向こう側にいる人にとってはどうでもいい話、「ふうん、あっそう」で終わる話なんだという自覚がますます必要な時代、他人にモノを読ませるにはこれだけの技量が必要なのだ、ということが身にしみてよくわかる一冊。
posted by nadja. at 15:53| 小説*日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月02日

類推の山

類推の山 (河出文庫)
ルネ・ドーマル 巌谷 国士
4309461565

その山はもしかするとバミューダ海域の真っ只中にいまだ発見されぬままに聳え立っているのかもしれない、コンゴ盆地のヘビースモーカーズフォレストの奥にひっそりと隠されているのかもしれない。「空中はるかに高くはるかに遠く、いよいよ高まる峰といよいよ白む雪の環を幾重にも越えたかなたに、眼に耐えられぬ眩暈をまとい、光の過剰ゆえに不可視のまま、<類推の山>の絶頂はそびえたっているのだ」から。

グーグルアースが地球の表面をくまなくうつしだす時代だからこそ、そんな山が世界のどこかにあったっていいんじゃないか? 信じることで成立する山、志を同じくする者が類推することで成立する山、ないと思えばない、けれどもあると信じればそれはあるのだ、なんだってそういうものだ。

別に観念小説でも幻想小説でもなくて冒険小説としてうわぁ面白い、と思って読めばそれでいいと思う。完成していればどんなに、と思うと非常に残念だ。ルネ・ドーマルといえばロジェ・ベルナール=ルコントと「大いなる賭け」のメンバーとして死をもてあそぶような賭けに興じていたろくでなしシュルレアリスト、というイメージがあったが、どうもそうではなくて、巻末の巌谷国士の解説を読んでも、健全なるユーモア精神に基づいて、生をあくまで明るい方向へ引っ張っていこうと努めていたようだ。たしかにこの本は元気が出る。「同胞の前で君の足跡に責任をもて」。未完の本編を補う形で付された覚書から。そういう心構えがないと山なんて登れないもんね。
posted by nadja. at 00:19| 小説*海外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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